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灯台守と家族たちが居た当時の灯台や岬の貴重な写真
南郷沖の離島「大島」南端の鞍埼にそびえる鞍埼灯台
「鞍埼航路標識事務所」として職員が家族と共に滞在し灯火と航路の安全を守りましたが、昭和40年灯台の電化に伴い油津海上保安部(当時)に統合され無人化されました。
灯台脇の建物は家族官舎で現在は撤去されています。
※ 写真をクリックすると拡大表示されます。
鞍埼灯台は明治17年に設置された国内屈指の歴史ある灯台で、宮崎県内では最も古い灯台となります。
鞍埼灯台までの険しい山道を、灯台と家族のための荷物を運ぶ職員。いわゆる「灯台守」の生活の様子です。
家族官舎の東側の軒先から見た鞍埼灯台
写真左の沖合に見えるのは「幸島」

鞍埼灯台は、昭和40年に電化されるまでは石油ランプを灯器として使用し、灯器の回転は人力で巻き上げた「おもり」の下がる力を利用していました。
灯台職員はこの重い「おもり」を1日に何度も巻き上げなければならず、相当の重労働だったようです。
灯台側から撮した隣接する家族官舎
まさに職場と生活が一体化していました。
大島付近は台風の常襲地帯であるため、官舎も一見東南アジア風の大きく頑丈な屋根造りとなっていました。
鞍埼灯台を背に写る職員と家族たち
この灯台で産声をあげた職員の子供もいました。
昭和26年春3月の一コマ
鞍埼灯台の周りで遊ぶ職員の子供たち
就学児童は、ここから3キロほど離れた「大島小学校」まで険しい山道を通学していました。
大島は、昭和30〜40年代の最盛期には300人以上の島民が暮らし、小学校で70人が在籍していたほか南郷中学校大島分校もありました。
島の子供たちにとっても鞍埼灯台は格好の遊び場だったようで、灯台職員の子供と灯台の中で鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだ思い出を語る元島民の方もいます。
その後島民も徐々に島を離れて小学校は昭和55年に廃校となり、平成21年現在の島民はわずかに9人となってしまいました。
職員と共に鞍埼灯台の灯を守っていた家族たち
一つ屋根の下に4家族が暮らしていました。
灯台附属の家族官舎の多くが、離島や岬のような不便な場所にあったため家族の苦労も並大抵ではありませんでした。このように、灯台を守って全国を赴任して廻る灯台守とその家族の生活を描いたのが、名作映画「喜びも悲しみも幾歳月」です。

現在の官舎跡地の様子はこちら→鞍埼灯台
県南の都井岬にそびえる都井岬灯台
都井岬灯台祭りの様子
灯台の敷地一杯に人々が集まっています。
灯台祭りが地域の一大イベントだったころの賑わい
同じく都井岬灯台祭り
祭りの横断幕を掲げたバスと、その前で踊りを披露する女性たち
都井岬灯台で職員の家族と歓談される常陸宮殿下と妃殿下
昭和43年7月に宮崎県農業青年団関係の大会にご臨席された際の一コマ
油津西町にあった灯台職員待機所
当時は「灯台吏員退息所」と呼んでいたようです。
昭和40年に鞍埼航路標識事務所が油津海上保安部に統合されたのちは、油津海上保安部灯台課職員官舎となりました。
同じく油津灯台職員待機所の様子
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