航路標識の発達
明治の初めには、外国へ行く船がほとんどなかった日本も、大正時代になると海運、水産が盛んになりました。
航路標識もそれに合わせて発展し、従来の灯台、霧信号所、潮流信号所のほか、昭和の初め頃から電波を利用した無線方位信号所※1が建てられるようになりました。
それでも、当時、日本は外国から「ダーク・シー」(灯台が少ないことを「暗い海」と言い表しました。)と言われるほど、海に囲まれているのに灯台の少ない国でした。
太平洋戦争が始まる前の我が国の灯台の数は、いろいろな種類の航路標識を含めても400基ほどしかありませんでした。太平洋戦争の終り頃には、灯台も攻撃され、たくさんの灯台や無線方位信号所が壊されました。
戦争が終って平和が訪れると、早速戦争で壊された航路標識を建て直す工事が始められました。
灯台の建設
昭和23年5月1日に海上保安庁が誕生して、航路標識の仕事を担当することになりました。その頃、それまで町や村で建てていた航路標識も海上保安庁が引き継ぐことになり、昭和24年から8年間に882か所を引き継ぎ、整備した結果、航路標識の数は一挙に戦争前の3倍になりました。現在(平成
17年度末)では、5,570基の航路標識が船舶の道しるべになっています。
また、日本のめざましい発展とともに、港の拡張や新しい港の整備が行われ、さらに航路の拡張に合わせて航路標識の整備も進められ、その数も増加しました。また、太陽電池や波力発電などの新しい技術を次々と取り入れて発展させて来ました。
さらに、太平洋戦争中に、アメリカで考え出されたロラン※2やレーダーなどが、戦後になって航路標識に取り入れられるとともに、衛星やレーダー光を利用したシステムを開発するなど、我が国の航路標識は外国からも多くの人が見学に来るほどに進歩しています。
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