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渥美半島は、知多半島とともに三河湾を形成しており、最先端の古山が海に落ち込む波打ちぎわに白亜の灯台が立っています。 渥美半島沖にある伊良湖水道は潮流が速く、暗礁が沖まで続いている航海の難所であったため、当時の逓信省灯台局により建設され、昭和4年11月20日初点灯し、現在も伊勢湾口部の重要な初認標識として役割をはたしています。 田原市では、伊良湖岬を一周できるよう遊歩道を整備しており、この灯台を間近で見ることができ、同時に正面に三角形の神島も見ることができます。 近傍には、波の浸食で出来た洞窟のある沖の石門と、それに対して波打ち際にある岸の石門との「日出(ひい)の石門)」があり、この上の断崖には島崎藤村の"名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実一つ・・・・・"の詩としても有名な「椰子の実」の記念碑が建っています。
恋路ケ浜
伊勢湾海上交通センター
伊良湖水道は、中部経済圏を支える伊勢湾・三河湾の各港への唯一の玄関口となっており、中部経済圏の輸出入貿易の大動脈であり、同水道においてひとたび海難が発生し、航路を閉塞する事態となれば、中部経済圏が大打撃を受けることは必至です。 海上保安庁は、このような状況を鑑み、伊良湖水道とその周辺海域の船舶交通の安全確保を図るため、平成15年7月に国内では7番目となる海上交通センターとして、「伊勢湾海上交通センター」の運用を開始し、伊良湖水道航路を通航する船舶に対する情報提供業務及び海上交通安全法に基づく管制業務を行っています。
所在地 | 愛知県田原市伊良湖町古山 |
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設置点灯 | 昭和4年11月20日 |
灯質(光り方) | 等明暗白光明3秒暗3秒 |
高さ | 15m(海面からの灯火まで16m) |
光達距離 | 5.5海里(約10km) |
愛知県最古の灯台で、灯台の周りの鉄製柵に、恋人同士が南京錠を掛けると恋愛が成就するというジンクスが広まり、訪れる人が増え、この錠の重みで柵が倒壊するという珍事がありました。このため、美浜町は灯台脇の小公園に「恋の鍵塚」を設置しました。
所在地 | 愛知県知多郡美浜町 |
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設置点灯 | 大正10年3月10日 |
灯質(光り方) | 等明暗白光 明3秒、暗3秒 |
高さ | 18m(海面から灯火まで20m) |
光達距離 | 8.0海里(約15km) |
明治18年7月贄埼常夜燈として発足した灯台です。当時は木柱にオイルランプを吊るし、地域で看視人を選出、専任させたとのことで、贄埼灯台に名称変更され現在の形になったのは今から88年前の大正11年9月です。
所在地 | 三重県津市 |
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設置点灯 | 明治18年7月1日 |
灯質(光り方) | 等明暗白光 明4秒、暗4秒 |
高さ | 8.3m(海面から灯火まで16m) |
光達距離 | 12海里(約22km) |
神島は、鳥羽港から北東へ約14キロメートルに位置し、潮の流れの速い伊良湖水道に孤立しています。緑に覆われた美しい島影は、三島由紀夫の小説「潮騒」に描かれているように今もその美しい風景はかわっていません。 島には古くからの文化財が数多く残っているほか、三重県無形文化財に指定されている「ゲーター祭」が行われる等、歴史の重みを物語っています。 島の東側は「安房の鳴門か音頭の瀬戸か伊良湖度合いが恐ろしや」と船頭歌に歌われ、日本の三海門の一つとなっている伊良湖水道で、昔から海の難所と言われていました。
明治41年7月伊良湖水道での軍艦の事故を端緒に、軍事上の要請と名古屋、四日市港の貿易振興上から航路標識の設置について建議されるようになり、明治42年に灯台の建設が始まり、明治43年5月1日に点灯しました。 当時は、石油ランプが灯台光源の主力でしたが、この灯台は日本で最初の白熱電球を使用した電気式灯台で、7千カンデラの光を出したということです。 また、同時に不動アーク灯の副灯を設けて「コズカミ」礁を照らしていました。なお、当時は鋼鉄製の灯台でしたか、昭和42年鉄筋コンクリート製に改築されています。
所在地 | 三重県鳥羽市神島町字東山259-4番地 |
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設置点灯 | 明治43年5月1日 |
灯質(光り方) | 群閃光毎30秒に3閃光 |
高さ | 11m(海面から灯火まで114m) |
光達距離 | 23海里(約42km) |
鳥羽の東3キロメートル、坂手島(さかてしま)、答志島(とうしじま)と共に鳥羽港を囲んでいるのが菅島です。島は東西に約4キロメートルの細長い島で、灯台はその東北の鼻に古風な姿で立っています。 菅島周辺の海域は数多くの岩礁があり、古くから難破する船が多く、船乗りから鬼が崎と呼んで恐れられていたそうです。徳川氏が江戸に幕府を開いた江戸時代、江戸の急増する人口に対応するため、現在の山形県酒田市から日本海を経由し、下関から瀬戸内海に入って、大阪へ、さらに紀伊半島をまわって江戸へという、いわゆる西回り航路が寛永10年(1670年)に開発され、東北の米を江戸へ運ぶことになりました。
しかし、菅島周辺の海では難破する船が続出したので、ここに「かがり火」を設けて目標としました。これが菅島灯台のはじめです。初期には露天で火を燃やしていましたが、その後風雨を避けるため「かがり火小屋」を建て、任命された専門の者が二人がかりで火を守ったという話です。
菅島灯台は、明治6年7月に点灯しました。英国人技師ブラントンが在日期間の末に設計・建設した灯台で、国産の白色レンガを使っており、近く安乗埼灯台とともに、静岡県御前埼から和歌山県樫野埼間では最も古い灯台で、灯台の竣工式には、時の政府の高官 西郷隆盛以下が多数出席したそうです。 明治期初期に建設され、歴史的、文化的な価値のある施設として、平成21年2月に経済産業省から近代化産業遺産群に認定され、また平成22年1月には文部科学省から有形登録文化財に登録されました。
所在地 | 三重県鳥羽市菅島町122 |
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設置点灯 | 明治6年7月1日 |
灯質(光り方) | 単閃白光 毎4秒に1閃光 |
高さ | 11m(海面から灯火まで55m) |
光達距離 | 7.5海里(約13km) |
三重県の東部、志摩半島の中央部に東から深く切れ込んだ天然の良港である的矢湾(まとやわん)の入り口に安乗埼(あのりさき)があります。古くは、安乗埼、大王埼(だいおうさき)、鎧埼(よろいさき)をもって志摩三埼と呼ばれ海の難所として知られていたところです。
ある記録によると延宝9年(1681年)に当時の安乗村に領主が烽火(のろし)を設け、領主に管理させたという記録があるそうです。この烽火とは、塔上に油紙で囲った灯籠(とうろう)を置き、この中で菜種油を燃す仕組みのもので、風雨の激しいときには、光力を増すため薪(まき)を燃やしましたが、背後の松に映えて絶好の船目印になったという話です。このほか当時の安乗村には、宝永年間(1704~10年)に船問屋衆が管理する燈明台(とうみょうだい:昔の和式の灯台)があり、これは、入港船から燈明台の費用を徴用していた模様で明治14年まで続いたそうです。
当時、安乗、的矢湾内渡鹿野島(わたかのしま) は、風待ち港として度胸と経験を頼りとして荒海を乗り切ってきた船乗り達で大変にぎわっていたそうです。
安乗埼灯台は、和式の灯台を取りこわし、その場所に立てた洋式灯台で、明治6年4月に点灯しました。この灯台は八角形木造で、後に海食で地盤が崩れてきたため、岬の突端から後退させましたが、さらに地盤が崩れたきたため、昭和24年に再度後退させ、その際、現在の四角形鉄筋コンクリート造りの灯台が建てられました。
現在の灯台を建てる当時、旧灯台は、現存する最古の木造灯台であったため、八角形の木造灯台は解体され、保存されることになり、現在は、東京都江東区の「船の科学館」の構内に移って余生を過ごしています。
安乗埼灯台では、(社)燈光会が参観業務を行っており、一般の方々でも灯台を見学することができます。
所在地 | 三重県志摩市阿児町大字安乗795番地 |
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設置点灯 | 明治6年4月1日 |
灯質(光り方) | 単閃白光 毎15秒に1閃光 |
高さ | 15m(海面から灯火まで35m) |
光達距離 | 16.5海里(約31km) |
遠州灘と熊野灘を二分するように西へ長く腕を曲げた形に突き出し、その内部に英虞(あご)湾を抱く三重県志摩半島の南東端、ちょうどひじに当たる場所が大王埼です。
灯台は、太平洋が一望できる海食台地の断崖上に立っており、たくさんの人々が訪れる風光明媚な地です。しかし、灯台の立っている周辺の海域は昔から海の難所でした。 灯台の立っている地は波切(なきり)と言い、遠州灘と、熊野灘の荒波を切り分けるように突き出していることに由来するという話があります。付近の海域は、険礁、暗岩が散在しており、江戸時代、関東と関西の間をさかんに往来した千石船の船頭達の間にも、俗に、大王沖で難破しても、船頭の責任は問われない、と言われたほどの航海上の難所でした。そのためでしょうか、大王埼の検礁のなかでひときわ目立つ大王岩(大王島)には「だんだら法師」という鬼が住みつき、沖合を通る船を誘い寄せ沈めたという巨人伝説があり、この鬼を驚かせ鎮めるために、長さ約3mの大わらじを作って海に流す波切の奇祭「わらじ引き」が行われるようになりました。
大王埼は、奈良時代に、すでに海上監視の防人(さきもり)が置かれた沿岸航路の要衝であったと言われており、灯台の立つ高台は、城山(じょうやま)と呼ばれ、戦国時代、九鬼一族が波切城を築き水軍勢力が雄飛した海の伝統を誇る地域でもあります。
大正2年さんま漁船が遭難し一瞬にして死者51名を出す海難があり、大正6年には、三千トンの巡洋艦「音羽」が大王岩に激突、座礁しました。このような海難がきっかけとなって大正15年に灯台建設に着工し、昭和2年10月に完成し、「魔の海に」光がともりました。
大王埼灯台では、(社)燈光会が参観業務を行っており、一般の方々でも灯台を見学することができます。
所在地 | 三重県志摩市大王町波切54-1番地 |
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設置点灯 | 昭和2年10月5日 |
灯質(光り方) | 単閃白赤互光 毎30秒に白1閃光、赤一閃光 |
高さ | 23m(海面から灯火まで46m) |
光達距離 | 白光18.5海里(約34km)、赤光17.5海里(約32km) |
二木島灯台は、風光明媚な吉野熊野国立公園の特別保護地域である楯ヶ崎園地に位置しており、灯台のある海岸までは遊歩道も整備されており、三重県の名勝天然記念物に指定されている「楯ヶ崎」 が望めます。
所在地 | 三重県熊野市英虞埼 |
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設置点灯 | 昭和28年11月4日 |
灯質(光り方) | 等明暗白光 明3秒、暗3秒 |
高さ | 12m(海面から灯火まで45m) |
光達距離 | 5.5海里(約10km) |