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 九州から台湾の間に連なる南西諸島。この島々の大半がかつて琉球とよばれ、その地形的条件から特異な歴史を歩み、独特の文化が育まれてきた。
 古来からこの島々の間の交流がさかんで、琉球国として大和はもとより、中国大陸、朝鮮、ジャワ、スマトラ、タイなど東南アジアの諸国との交易を続け、その相手国で見聞した文化を独自のものに創りだし、大交易時代の十六世紀には琉球王朝が全盛となる。

 特に隣接の大陸とは、冊封使をつかわし、御冠船を迎える等、琉球王朝にとって海上交通は、その根幹となっていた。
 この根拠として、県内各地の遠望のきく岬や山頂には、現在も地名やががり火、のろしを焚いた史跡が残っており、これが航路標識として利用された。

 わが国が西洋技術を取り入れて、一貫した官業で灯台建設に取り掛かったのは明治元年であったが、沖縄県における航路標識業務は、明治28年御用船『陸奥丸』により南西諸島から台湾に至る航路の調査・測量が行われたことに始まる。
 この調査の結果、28か所の候補地のうち8か所に灯台を建てることが決まった。これには、鹿児島・琉球・台湾間の航路を示す『伊江島』、那覇港を示す『先原埼』(現在の那覇空港付近)および中城湾を示す『津堅島』の3か所が含まれている。
 明治28年12月『明治丸』便で建築員の派遣および建築資材が搬入され、翌年1月工事にかかり、9月15日『津堅島灯台』、同30日『先原埼灯台』が完成。11月25日に同時に点灯した。引き続き同30年2月20日『伊江島灯台』が完成、3月5日点灯し、当県周辺海域にも文明の光りが輝きはじめた。
 明治33年那覇港内『三重城灯台』及び昭和15年『池間島灯台』を設置し、戦前はこれら5か所で沖縄の海を守り続けた。
   ※ 地方自治体等が公設・私設の灯台等を設置していたはずであるが、告示された公の施設は確認できない。
 大戦末期の戦災により、5基の灯台は痕跡もないほど灰塵と化し、航路標識業務は一時休止のやむなきとなる。
 戦後の復興はもっぱら米軍に委ねられ、米国沿岸警備隊が整備・管理にあたった。

 昭和28年7月7日、米国民政府から琉球政府に対して59基の標識が移管されたが、同政府工務部交通局海務課港政係に航路標識担当職員1名を配置、巡回による保守・点検を行っていた。
 同33年、灯台8基、(灯)浮標59基、立標4基を琉球政府で維持管理するまでとなり、さらに増設が急務であるとのことから、『航路標識法』の立法要請が、行政首席(当時 當間 重剛 氏)から米国民政府民政官あてに行われた。
 米国との法体系の違いから数回差し戻しとなり、昭和36年5月5日琉球政府 立法第12号で『航路標識法』が公布され、標識整備に拍車がかかることとなる。
 また、日本政府援助ということで39年2月伊平屋島灯台を先頭に、続々と沿岸大型灯台の建設がはじまった。 42年4月1日通商産業局運輸部海運課灯台係(係長1名、係員4名)と組織替えとなり、1〜2か月に1回という割りで巡回保守点検を実施していた。
 米国所管の標識については、沿岸警備隊員2名が那覇軍港に常駐し、維持していた。
 昭和47年5月15日、復帰と同時に米国から61基、琉球政府から159基の航路標識を引き継ぎ、第十一管区海上保安本部が発足した。

 現在、340基以上の航路標識を第十一管区海上保安本部において保守管理及び運用を行っている。


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