前書き
前回までは、対馬最南端に位置する神埼灯台にスポットを当て、2回にわけて「神埼灯台建設のエピソード」、「神埼灯台の黄金の泉伝説」、「戦時中の神埼灯台と職員の状況」を、ご紹介いたしました。
今回は、対馬の海の玄関口である厳原港の入口にある耶良埼に設置されている耶良埼灯台について、ご紹介いたします。
現在の耶良埼灯台
耶良埼灯台位置図
「耶良埼灯台・古代のロマン〜その1」
現在、対馬には、三島灯台、神埼灯台、豆酘埼灯台、対馬黒島灯台及び琴埼灯台の大型沿岸灯台5基を初めとして、主要港湾や各種漁港の防波堤上に設置されている防波堤灯台など、63基の灯台が設置されています。
これらの対馬の灯台の中で、近代灯台としての建設の歴史が最も古い灯台は、明治27年8月28日に初点灯した三島灯台であり、今回紹介する耶良埼灯台は、大正13年6月1日に初点灯した、近代灯台としては4番目に古い灯台となります。
ただ、耶良埼灯台は、対馬郷土誌『増訂 對馬島誌』にも記述されているように、その経歴を遡って見ると、江戸時代に対馬藩が設置した「灯明台」にまで遡ることが出来る、我が国でも有数の由緒ある経歴を有しています。
創立年期 |
設 立 地 名 |
創 立 者 |
存 廃 |
不 詳 |
長崎県対馬国下県郡厳原村東里 |
藩 主 |
存 |
(注)都道府県名は原文にはないが、理解しやすくするためにあえて附した
「明治以前設置燈明臺年度表」より抜粋
耶良埼灯台について、「増訂 對馬島誌」第13章には、次のように記されています。
○耶良崎 燈 竿
位 置 嚴原港外耶良崎 北緯三四度一二分 東経一二九度一八分
初點年月 大正十三年六月
構 造 白色、竿柱、木造
燈 質 不動白光、電燈
明 弧 一八三度(南八度西)より一一九度(南五六度東)迄。
燈 高 基礎上六米一 水面上四六米七
燭光数 三
光達距離 八浬五
記 事 看守員を置かず、嚴原町立。
附言 昭和二年度より官立燈臺となる。
附言 嚴原港口耶良崎には藩政時代既に燈臺あり。現に其跡を存す。其後維新後明治九年に至り有志 者の發起にて其下方に燈臺を設けしが、竹敷軍港の盛なる頃鶏知高濱に燈臺を設けし時紛はしき を以て之を廃止し久しく中絶せしを、大正十三年に至り町立を以て之を設けたり。
神崎燈臺及び三つ島燈臺は明治二十七八年日清戦役の初期に設立せり。
この記事中の附言は、同書誌の実質上の編集者である日野清三郎氏が記したとのことですが、この附言には次のように注目すべき記述が書かれています。
@ 藩政時代に燈明臺が既に耶良埼に設置されていた。
A 明治9年に有志により対馬藩が設置した燈明臺の後を継ぎ、再び燈明臺が再建され た。
B この燈明臺が時の海軍の意向により、かなりの長期間廃止させられた。
C 大正13年に厳原町立として再々建された。
この附言について、他の書籍や対馬海上保安部の記録資料等を参照して補足説明致しますと、
江戸時代に対馬藩が設置した耶良埼の「灯明台」の「灯火」は、明治維新後の版籍奉還・廃藩置県等の行政組織の大変動期に一時途絶え、再び明治9年に厳原在住の問屋5名の有志によって再建された「耶良崎燈明臺」と引き継がれたが、この「耶良崎燈明臺」の「灯火」も永くは続かず、鶏知高濱灯台と紛らわしいとの理由から海軍の要請により、かなりの長期間廃止を余儀なくされ、大正13年6月に、再度、有志による資金提供で再々建され、厳原町へ寄付され厳原町立の『耶良埼燈竿』が誕生したようです。
その後、この『耶良崎燈竿』は昭和23年10月2日に海上保安庁に移管され、昭和31年3月1日、現在のコンクリート造りの灯台となっています。
『増訂 對馬島誌』第13章「海、海路、及燈臺等」
耶良埼灯台の変遷の概要について記しましたが、次回以降、
@ 対馬藩設置の「燈明臺」について
A 明治九年に対馬藩設置の燈明臺の跡継ぎとして、厳原在住の問屋五名が再建した「石造りの燈明臺」について
B 有志者多数の寄付金により大正十三年に再々建され、厳原町立の灯台となった「耶良埼灯竿」について
C 昭和三十一年三月一日、石造りの「燈明臺」式の灯台に代わり、鉄筋コンクリート製の灯台に新しく生まれ変わった「現在の耶良埼灯台」について
順に、ご紹介いたします。
【一服】
『野良』と『耶良』について
耶良埼の沿岸の字名は「野良」と呼ばれており、両者には何か共通点がありそうですが、「対馬の歴史探訪」に、この点を簡明に説明しています。
◇耶良崎(やらざき)。現厳原港の東南端を耶良崎と称し、沿岸の字名を野良(やら)という。これは旧郷名与良(よら)の本名とみられ、『津島紀略』に「与良は府の本号なり。(中略)東南岸を耶良という」として、与良と耶良の通音を示唆したが、これを註した藤子光は、「与良。往古は耶良と云。浦口を耶良と云は往古の名、詳に旧伝あり」としている。しかしその旧伝なるものは不明・・・(以下省略。)。
と説明しており、筆者云わんとする大意は、野良は耶良の本名で、与良と耶良は通音で同意語とのように解釈されます。
【註】府は、府中の略。府中は宗家対馬藩の藩庁が置かれていた地域の呼称。
【註】与良は、後世(明治時代まで続いた。)の二郡八郷時代の一郷名で、現在の美津島町の上島部の東部と下島部の全部及び厳原町の東部が含まれていたようです。
[参考資料]
『増訂 對馬島誌』
編纂兼発行者対馬教育会
編集者対馬教育会
発行者中村安孝
発行所(株)名著出版
昭和48年9月6日発行
初刊昭和3年7月1日
『日本燈台史』
編集 海上保安庁燈台部
発行 社団法人 燈光会
昭和44年6月30日発行
『対馬の歴史探訪 』
著者 永留久恵
発行者 扇 長雄
昭和57年9月20日発行