当初、灯台に必要な燃料油、灯器、備品、消耗品などの物資は「灯台補給船」が運んできました。日御碕沖(荒天の場合は南の黒田湾)に仮泊し、搭載艇や地元の漁船により、灯台の倉庫まで運ばれました。
補給船は、全国津々浦々の灯台を回り、物資の補給以外に業務視察、航路標識精度測定、転勤者の輸送などとともに、灯台職員と家族の健康診断、慰問品の配布、船内での映写会、会食など福利厚生も行っていました。厳しい環境で、孤独感と娯楽の欠乏に耐えていた職員と家族にとって、年一回の補給船の寄港は、大きな心の支えになったと言われています。
昭和40年頃になると陸上交通や生活が便利になり、船による物資の補給はほとんどなくなりました。







灯台での暮らしを想像したとき、映画「喜びも悲しみも幾年月」に登場する、灯台守夫婦の姿を思い浮かべる方も多いと思います。実際灯台での暮らしは厳しかったようです。故郷を離れ全国の灯台を転々とする生活は、まさに映画のイメージそのままの暮らしだったと言われています。
出雲日御碕灯台も設置当時から約70年間、敷地内にある退息所(宿舎)で、数名の職員とその家族が灯台の光を守りながら生活していました。近くには宇竜や日御碕の集落があり、郵便取扱所(郵便局)もあって全国有数の便利地であったと言われています。しかし、全国各地から赴任してくる職員とその家族にとって、知らない土地での生活は心細く不安も多かったそうです。戦争中には灯塔に緑色の迷彩を施し、灯火も敵機来襲と同時に消灯しました。近くに照明弾が落とされ機銃掃射を受けたこともあったそうです。
現在、全ての灯台は完全に自動化され、無人で運用しています。事務所や宿舎も都市部に移設し、職員の生活も映画のイメージとはかなり違ったものになりました。今では、当時のことを「苦しいこともあったが、灯台では皆が家族同様で励まし合い、喜び合って過ごした。なぜか後にして思えば、懐かしく、よい思い出だけが残った。」と話される方ばかりです。














島根県立図書館所蔵(明治40年頃の灯台)