出雲日御碕灯台は、島根半島のほぼ西端、日本海の荒波の打ち寄せる断崖の上にあります。
山陰沿岸は古くから海上交通の盛んなところでした。古代のロマンに満ちた「出雲神話」には航海や海に関する話が多く出てきます。江戸時代には北前船により全国の特産物が山陰沖を往来し、日御碕に近い宇竜港も「風待ちの港」として、北前船の商人で大変な賑わいを見せたそうです。明治になると、1876年(明治9年)に三菱汽船による日本海航路が、1884年(明治17年)に大阪商船による山陰航路が相次いで開設され、汽船による海上輸送の高速化・大量化か図られます。さらに日清戦争(1894年)以後は、海運助成策が日本全国で強力に推進され、浜田と境の両港が開港場の指定(1899年)を受けたことから、外国貿易も盛んとなりました。
このような海運業隆盛の時代に、山陰の海上交通の要所であるこの地に灯台を求める声は一段と高まり、1900年(明治33年)に出雲日御碕灯台の建設が開始されました。灯塔は全て日本人の手によるもので、その大きさは日本最大、総工費は10万2188円66銭4厘、完成には2年5ヶ月余りの歳月を要しました。そして1903年(明治36年)4月1日日本海に向け煌々たる光が放たれ、初代看守首長佐藤半左衛門以下、航路標識看守3名による業務が開始されたのです。
以来、戦争や災害にも見まわれ、幾度も改修や補修が施され、管理する組織や人の姿も移り変わり、100年が経過しました。しかし、出雲日御碕灯台は今なお石造灯塔として日本一の高さを誇るとともに、船舶の航行安全を図る使命を守り続けています。
1998年には、IALAの「世界の歴史的灯台百選」に選ばれ、歴史的・建築技術的に優れていることが世界的にも認められました。
夜空高く、紅白の灯光を交互に放つその姿は、これからも神話の国「出雲」のシンボルとして、歴史と人々の暮らしを照らし続けることでしょう。