前書き
 前回は、耶良埼山頂付近の石組み後は、何に利用されていたのかについて、ご紹介いたしました。
 江戸時代には、古代より海上交通が発展していた瀬戸内海地方にも耶良埼に設置されていた灯明台と同様の灯明台が数多く設置されており、その多くは、耶良埼灯明台と同様に明治維新の版籍奉還、廃藩置県等の行政組織の大変動期に廃止されてしまいました。近年、それらの灯明台のうち幾つかが復元されて昔の姿を蘇らせ、人々の目を楽しませています。
 瀬戸内海は対馬とゆかりある朝鮮通信使も行き来した海であり、今回は、復元された瀬戸内の灯明台について、ご紹介したいと思います。
「耶良埼灯台・古代のロマン〜その5」
江戸時代に設置された瀬戸内海地方の灯明台について
 日本燈台史(海上保安庁燈台部 編集、社団法人 燈光会 昭和44年6月30日発行)の巻末資料中に、江戸時代に建造された105カ所の灯明台について、創立年期、設立地名、創立者及び存廃の記録を取りまとめた「明治以前設置燈明台年度表」が掲載されています。
明治以前設置燈明台年度表(抜粋)
 我が国は島国のため海路による交通は早くよりひらけており、海路を行き交う船舶の指標としての航路標識も早くから整備されていたようです。
 近世の灯台の前身である灯明台は、慶長年間(1596〜1614年)になって整備され始め、1596年に能登国(現在の石川県)羽咋郡福浦港に村民(日野吉三郎)によって建立された灯明台が我が国初の灯明台と言われています。また、ほぼ同時期である1600年頃には、小倉藩主であった細川氏も自らの領域内であった豊後国(現在の大分県)東国東郡姫島に灯明台を設置しています。
 灯明台は海路の指標として全国に設置されましたが、その大半は瀬戸内海に設置されていたことが年表から伺えます。
 では、瀬戸内海に復元された5つの灯明台について、ご紹介します。
○ みたらい灯籠堂
山口県光市室積浦の御手洗州先(象鼻岬)に復元された灯籠堂
 みたらい灯籠堂は、全国で24番目(山口県では最古)に設置されたものであり、元禄14年(1701年)に周防国(現在の山口県)熊毛郡室積浦の百姓 松村屋亀松(室積浦年寄)が、病のために急死した父 次郎左衛門(室積浦年寄役)が、『役中に「何か地下(じげ)のためになることをしたい」と思い立ち、室積浦の繁栄を願って「港内の見入りよろしく、夜中にも回船が出入りできるようにしたい」と考えていた』遺志を継ぎ、御手洗州先(象鼻岬)に灯籠堂を銀800目の自費で建設することを藩に願い出て創立されたものです。
 灯籠堂は翌15年(1702年)に完成し、松村屋は灯籠堂の年間運営経費(灯油代、灯手の飯米代、その他諸費(灯芯・付け木・たいまつ代等))を捻出するため、別に米40石を藩に寄付し、以後の維持経費をその米の貸し付け利で賄っていたそうです。
 また、山口県下の他の灯籠堂等が長州藩によって建設管理されていたなか、明治8年にこの灯籠堂が廃止されるまでの173年もの間、途中倒壊等したこともあったようですが、松村屋の子孫が補修を重ねながら代々管理運営していたことも驚くべきことです。
 室積の御手洗湾に沿った海岸通りに設置されている現在の灯籠堂は、平成3年3月に復元されたものです。
○ 下蒲刈島常夜灯・鞆の浦常夜灯
・下蒲刈島常夜灯
広島県呉市下蒲刈(しもかまがり)町の蒲刈島番所跡に復元された常夜灯と掲示板
 豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に西海航路が整備され、要所には「海駅」が設けられました。江戸幕府もこれを継承し、広島藩主 福島正則は江戸幕府の命によって蒲刈島三之瀬に「海駅」を設けました。「海駅」には、本陣、番所、茶屋が設けられ、西国大名の海路による参勤交替、長崎奉行の江戸への連絡、オランダ、琉球使節、朝鮮通信使の往来の際やその他諸国廻船などに利用され、三之瀬には、慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)の間に12回来日した朝鮮通信史のうち11回が立ち寄っています。朝鮮通信使の船6隻には対馬藩の船40隻が随行し、三之瀬に船を寄せ1〜2泊し、対馬藩は本陣を宿泊所として使用しました。
 番所前に設けられた三之瀬港には東方と西方に波戸(防波堤)が設けられており、夜間の船舶の出入りを容易にするため西側の波戸に常夜灯が設置されました。この常夜灯は、広島市内を流れる旧太田川(本川)の河口、鞆の浦に続いて広島藩で3番目に設置されたと言われており、木製のものでした。
 番所跡に復元された常夜灯は、鞆の浦常夜灯(後述)を縮小したものが復元されています。また、現在、三之瀬港の防波堤には東西それぞれに常夜灯が整備されています。
・鞆の浦常夜灯
広島県福山市鞆町に現存する鞆の浦常夜灯
 鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央付近に位置するため、満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込んだ海水は鞆の浦沖付近でぶつかり、また逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出していくため、鞆の浦付近は、万葉の時代から瀬戸内海を往来する船舶の潮待ちの場所として利用され、多くの船舶が潮待ちのために停泊していました。このため、港に灯台の役目をした常夜灯が建立されました。
 鞆の浦常夜灯は、安政6年(1859年)に建立され、常夜灯には蝋燭を使っていた名残があり、現存する常夜灯では日本一の高さを誇っています。
 また、鞆の浦は朝鮮通信使の寄港地にもなっており、常夜灯のほかに江戸時代の港湾施設である「雁木」「波止場」「焚場」「船番所」が残っており、全国で唯一江戸時代の港湾施設の全てが揃っている港です。
○ 牛窓灯籠堂・大多府灯籠堂
 備前藩は灯籠堂を4カ所に設置しましたが、そのうち2カ所の灯籠堂(牛窓灯籠堂、大多府灯籠堂)が復元されています。
・牛窓灯籠堂
岡山県瀬戸内市牛窓町に復元された牛窓灯籠堂
 藩主 池田綱政の命により、瀬戸内海を航行する公・私船の航行が頻繁となったため、夜間通航の標識として、延宝年間(1673〜1681)に設置されました。
 現在の灯籠堂は、昭和63年に復元されたものです。
・大多府灯籠堂
岡山県備前市日生町に復元された大多府灯籠堂
 正徳4年(1714年)に建立され、明治初年までの約150年にわたり灯明が入れられ、沖合を行く船舶の目印となっていました。
 現在の灯籠堂は、昭和61年に当時の台石の上に再建されたもので、灯籠堂の台石の幅は約5.3メートル、台石を含めた高さは約12.5メートルあります。
 
 
【一服】
○「灯明台」「灯籠堂」「常夜灯」について
「灯明台」「灯籠堂」「常夜灯」など「灯台」も昔は色々な呼び方で呼ばれていたようです。筆者も、この微妙な言葉の使い分けてについて、正直なところよく分からないのですが考察してみました。
 
 神仏に供える灯火のことを「灯明」と言い、「灯明台」の語源ではないかとも思われますが、江戸時代になり、夜間海上を往来する船舶等の指標として我が国独自の灯台が建てられるようになった頃、その建造物(灯台)を「かがり屋」とか「灯明台」と呼んでいたようです。「灯明台」と呼ばれる建造物は、石積みの台の上に小屋を建て、その中で木(油)を燃やす仕組みになっており、もとより灯台の役割を果たすために建てられた建造物であったと考えられます。
 
 灯火をともす器具の一つに「灯籠」があります。木や竹で造られ周りを油紙障子などで囲ったものから石や金属で造られたものなど、灯籠には様々なものがあります。「灯明台」も石造りや木造の小屋の上に木造の灯籠をのせた物が多かったようですが、「堂」が大きな建物を表す言葉として用いられることから、しっかりとした建物様の灯籠なので「灯籠堂」と呼ばれたのではないかと思います。
 
 神社や寺院に建てられている石灯籠で、夜ごと火を灯すものが「常夜灯」と呼ばれています。海岸近くに建てられた神社や寺院の「常夜灯」は、船舶にとって灯台の役目を果たし、海上を往来する船舶に利用されていたことから、そのまま「常夜灯」と呼ばれていたのではないかと思います。
 
「日本灯台史」の中に興味深い記述を見つけたので、ご紹介します。
『 燈台の火がこのように微々たるものであったので、一般の燈火と光力の点ではいちじるしい相違はなく、燈台のほかに古くから神社仏閣の常夜燈が航海の好目標として利用された。摂津国住吉神社は古来海神として信仰されているが、平城天皇の年間(800年頃)、僧空海が石燈籠を寄進して以来諸方から寄附があり、とくに出見浜に建てられた高燈籠は海岸に屹立し、高さ海面上70尺、この燈火は約2里の海上から望見され、航海の好目標であったと伝えられている。各地に、このように神社の燈籠の火で航海の目標とみられたものがあり、船の利用のため終夜点燈されたものが少なくなかった。
 江戸時代では、上記住吉神社の高燈籠のほか、磐城の江名合磯埼常明燈、江戸神田明神常明燈、武蔵国羽田弁天高燈籠、桑名赤須賀地蔵常燈籠、羽後酒田日和山明神常夜燈などが著名である。』
 このように、「高燈籠」「常明燈」「常燈籠」などとも呼ばれていたようです。
 
 
 今回は、江戸時代に瀬戸内海地方に設置された5カ所の灯籠堂等について、ご紹介してみました。今回ご紹介した灯籠堂等が建立された港は、風待ち・潮待ち時などに船舶の停泊地として最適の場所であり、古代から瀬戸内海の海路の要衝の地として栄え、いずれも西国大名の参勤交代や諸国廻船の来泊に加え、朝鮮通信使の寄港地であったことが共通点としてあげられます。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に西海航路が整備され、要所には「海駅」が設けられ、江戸幕府もこれを継承して「海駅」を整備し、国内海運の著しい活発化に伴い、1600年頃から船舶交通の安全を確保するために瀬戸内海を中心に灯明台の設備が進みました。
 対馬でも朝鮮との船舶の往来が活発となり登楼を設けていましたが、寛永18年(1641年)に江戸屋敷から「鰐浦口と府中浦口に新たに灯楼台を備え、府中浦口は瀬戸内のものと同様にせよ」との指示があり、府中浦口(耶良埼)に灯明台を設置することになりました。またその頃、対馬藩は朝鮮通信使の随行役として海路(船舶)にて瀬戸内海を往来しており、瀬戸内海に設置されている灯籠堂(常夜灯)を利用していました。
 このような背景から、今回ご紹介した灯籠堂等のうち1641年以前に建立されていたのは下蒲刈島三之瀬港の常夜灯のみですが、対馬藩が耶良埼に設置する灯明台のモデルとして、瀬戸内海に設置されていた灯楼堂を参考にしたとの推察も十分に成り立ち、書状跡付(寛永十八年六月二六日付)に書かれている「瀬戸内」を「住吉瀬戸(鴨居瀬)」と解さず、文字どおりの「瀬戸内海」と解することもできるのではないでしょうか(耶良埼灯台・古代のロマン〜その3 参照)。
 次回は、大正13年に耶良埼灯明台に替わり厳原町が設置した「耶良埼灯竿」及び昭和23年に耶良埼灯竿が海上保安庁に移管された当時の状況などについて、当時の記録や写真などを織り交ぜながらご紹介したいと思います。
 
 
[参考資料]
「つしま百科」
編  集   つしま百科編集委員会
発  行   長崎県対馬支庁(現 長崎県対馬地方局)
発行日時   平成14年3月25日
 
「日本灯台史」
編  集   海上保安庁燈台部
発  行   社団法人 燈光会
発行日時   昭和44年6月30日