前書き
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前回は、対馬藩が耶良埼に灯明台を設置した時期などについて、ご紹介いたしました。引き続き、耶良埼に現存する石組について、何に利用されていた跡なのか推察してみたいと思います。
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「耶良埼灯台・古代のロマン〜4」
耶良埼山頂付近の石組みは、何の跡か? |
西日本新聞(1989年(平成元年)1月26日号)に、「藩政時代 灯台跡」と題して、耶良埼の山頂付近に現存する石組みについて、『厳原港入り口にある耶良埼に旧藩政時代の灯台跡とみられる石組みがあり、これについての明確な資料は残されていないが、厳原海上保安部灯台課は、「もし旧藩政時代の灯台跡であれば、全国的にも珍しく、灯台の歴史から見て貴重な遺跡」と解明を急いでいる。この石組みは耶良埼岬の山頂付近にあり高さ3.5m、底辺3m、頂辺1.9mの四角すい型。「灯台跡」の存在は地元でも一部の人しか知らず、現在まで文献上、正確な設置年度を示す資料はなく、「対馬島誌」(昭和3年)に「耶良埼には藩政時代すでに灯台あり」と数少ない“証言”があるだけ。』との内容の記事が掲載されています。
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西日本新聞記事(1989年(平成元年)1月26日) |
また、この石組について、町報いずはら(昭和37年No.11)には、『厳原港の灯台といえば、耶良埼にあるが、すでに藩政時代にもあって、そこには、現在も灯台役人の見張台が残存している。』との記事が掲載されています。この記事中の見張台とは石組を指しているものと思われ、耶良埼山頂付近に現存する石組は、灯明台が設置されていた跡ではなく、灯台役人が遠見番に使用した望楼台の跡ではないかと推察することができます。
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『町報いずはら』(昭和37年No.11)記事 |
灯明台も見張台も、いずれも対馬藩が耶良埼山頂付近に設置したことは間違いなく、この石組が「灯明台の台座であったのか?」、はたまた「灯台役人が見張りに使った望楼の台座であったのか?」興味が沸くところであり、推察してみたいと思います。
現在の厳原港2号岸壁に展示中の灯明台については、灯台四方山話第4回で、『対馬藩が設置し、明治維新後の版籍奉還・廃藩置県等の行政組織の大変革期に廃止されていたものを、明治9年に問屋5名が再建したものである。』と紹介いたしました。この再建された灯明台は、下図1の灯明台寸法図のとおり、下部は直径2.04mの円筒形をしています。 |
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厳原港2号岸壁に展示中の灯明台寸法図(図1) |
一方、耶良埼山頂付近に現存する石組の規模は、下図2の石組寸法図のとおり台形をした四角錐となっており、上部平面の寸法は、1.67mから1.97mの変形四角形をしています。 |
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耶良埼山頂付近に現存する石組の寸法図(図2) |
耶良埼山頂の石組の頂上に立てば、厳原港から対馬海峡までが一望でき、この石組上に灯明台や望楼を構築すれば、その効果は絶大であることが推察されますが、灯明台と石組の寸法図を見比べれば、その構造・規模から厳原港に展示中の灯明台を石組上に設置することは明らかに困難であることが分かります。
また、灯明台であっても比較的小規模かつ軽量なものであれば設置も可能かと思われますが、厳原港に展示されているような規模と重量のある構築物では、石組上に構築することは強度的にも難があると思われ、望楼のような比較的軽い構造物が構築されていた可能性が高いと解することが適切ではないかと思われます。
では、対馬藩の灯明台の設置場所について、別の観点から考察してみたいと思います。
灯台四方山話第4回で、『日本燈台史(海上保安庁燈台部 編集、社団法人 燈光会 発行、昭和44年6月30日)中に記されている「明治以前設置燈明臺年度表」では、対馬藩が設置した「灯明台」について、『設立地名は「長崎県対馬国下県郡厳原村東里」、設立者は「藩主」、存廃については「存」』と明記されており、この記述に基づけば、明治9年に厳原在住の問屋5名が建設したといわれているこの灯明台は、実際は対馬藩が設置した灯明台であった可能性が高い』と紹介いたしました。
厳原村が存在した期間は、厳原町史によると『明治11年(1878年)厳原村設立、明治41年(1908年)厳原町に昇格』となっていることから、明治以前設置燈明臺年度表は、明治11年から明治41年の間に調査し作成されたものであると推察され、かつ、明治以前設置燈明臺年度表では、廃止されたり改正(改造)された燈明臺については、その旨が正確に記されていることから、年度表の調査時に藩設置の燈明臺が存在していたことは疑いの余地がないと解されます。
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明治以前設置燈明臺年度表(抜粋) |
また、厳原港に展示されている灯明台は、明治9年に再建されたものであることも疑いの余地はなく、明治以前設置燈明臺年度表の調査時期には、既にこの再建された灯明台が設置されていたことから、再建された灯明台は、もともと厳原藩が設置していた灯明台ではないかと推察されることになります。
このように推察してみても、やはり灯明台と石組の構造から、(対馬藩設置の)厳原港に展示されている灯明台が石組上に設置されていたとは考えづらくなります。
耶良埼山頂付近に現存する石組跡は、「灯台役人が見張りに使用していた望楼の土台石組跡であり、灯明台の設置跡ではない」との推察結果になりましたが、如何でしょうか。
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石組跡 写真 |
【一服】 |
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「遠見番」と「灯明台」の仕事について
対馬藩が耶良埼に設置したとされている灯明台と遠見番所を保守していた対馬藩の役人は、灯明台の保守と遠見番という2つの仕事を兼務していたのではないかと考えられますが、「新対馬島誌」にそれを裏付ける記述があります。
同誌の「対馬の歴史」の章「近 世 二 慶長条約」の節「1 国交復旧」の項中に、当時の「対馬の港津」に関する記述があり、『普通に対馬で御関所と呼ばれていたのは、佐須奈と鰐浦の両所で、この両所が朝鮮への渡り口で、ここで朝鮮往還の船を改めた。(中略)波がいよいよ高くて鰐浦にも入難い時は、綱浦に船を入れたので、御番所を置き、勤番として御目付一人が詰めた。綱浦番所は平常は密航船(欠乗)取締りが主であった。その他は大船越にも番所を設け在番一人を置いて、西目往来の船改めに当らせた。また遠見番所が沿岸十数カ所あり、異国船や密航船の見張り、或いは火を焚いて航路の安全に備えたが、草梁和館の広大に比べて何とも規模の小さな施設であった。』と記されています。
また、同項の「密貿と抜船」に関する記述の中では、『彼等が抜船をする場合はあまり大きな船ではなかった。島の関所は鰐浦と佐須奈にあり、遠見番所も東西合わせて十一カ所あったので、彼等は番所の所在を考慮し、夜中に危険地域を通過するようにし、又帆を二つ張って朝鮮船に偽装したり、監視の目をくらます事に苦心した。』と、当時の遠見番所が有効に機能していたことが伺える記述があります。
しかしながら、「近 世 九 藩政の動揺」の節「2 対馬見聞」の項に『文久元年(1861年)に露艦が浅海(浅茅)湾の一角芋崎に寇した時、対露交渉のため江戸から幕吏が対馬に派遣され、幕吏の中で野々村丹後守、小笠原摂津守、立田録助の3人が、同2年10月から53日間にわたって島内を巡視し、その結果を幕府に報告した。』とあり、その報告中の「対馬の防備体制」に関する記述では、耶良崎に置かれていた遠見番所について、『鰐浦、佐須奈村などの朝鮮渡海場には番所を設け、3月初から9月初旬までは佐須奈にその後は鰐浦勤番と云うことになっている。遠見番所としては府中野良崎、内院村、豆酘村、椎根村、尾崎村、小綱村、志多留村、佐須奈村、鰐浦村、志多賀村、鴨居瀬村に村番所を設け、その中野良崎、佐須奈、鰐浦の三カ所は平素番人を置き、その余の場所も郷中村々から給人または足軽百姓等から二名づつ昼夜詰めさせているとの事であるが、そのような様子は更になく、防備は至って手薄のようである。』と、その機能が十分に働いていないとの報告がなされています。
文禄・慶長の役(1592年〜1598年)後の日朝国交正常化により交易港の整備や関所・番所の設置・整備がなされ、厳格に運用されていたものの、250年近い歳月を隔てる間に、文久元年(1861年)に露艦が浅海(浅茅)湾の一角芋崎に寇した頃には、設置当初の機能を十分に果たすこともなくなっていたようです。 |
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遠見番所について
遠くを見通せる高い山の頂に番所を設け、事変が発生したときには、火を焚いて次の中継地点に連絡し、これを連続して繰り返すことにより藩庁が置かれた府中に変事を連絡する役割を果たしていたもの。
江戸時代における対馬島内での遠見番所は、府中野良崎、内院村、豆酘村、椎根村、尾崎村、小綱村、志多留村、佐須奈村、鰐浦村、志多賀村、鴨居瀬村に設けられており、昼間は煙を発生させ、夜間は篝火を掲げていた。
また、対馬では、古代から烽(烽火、狼煙)制度が用いられており、厳原町史(449ページ)には、『延暦18年(799年)4月13日付太政官符に、「諸国の烽を停廃。ただし太宰府管内は旧に依り改めず」とある。(『類聚三代格』卷18、関并烽候)。対馬で烽を置いた所として、上県町の井口嶽(千俵蒔山)、御嶽、黒蝶山、豊玉町の天神嶽、美津島町の大山嶽、白嶽、厳原町の荒野隈(大鳥毛山)、竜良山の八峰が通説と言われている。(中略)それと確認される遺跡はない。』と記されています。
中国、朝鮮と国境を接する対馬と北部九州の地が国防上最重要な地点であったことが伺われます。 |
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今回は、耶良埼に現存する石組について、江戸時代に対馬藩が設置した灯明台の台座跡なのか?、あるいは、灯台役人が遠見番に使用した望楼の跡なのか? 推測を交えて紹介してみました。
次回は、耶良埼の灯明台と同様に、江戸時代には瀬戸内海地方にも数多くの灯明台が設置されており、これらのほとんどが明治維新の大変動期に廃止されてしまったものの、いくつかの灯明台は復元されて昔の姿を現在に蘇らせており、これらの灯明台について、現在の写真や経歴などをご紹介したいと思います。 |
【参考資料】
『改訂 対馬島誌』
編者 対馬教育会
発行者 中村安孝
昭和15年6月30日初版発行 昭和51年7月26日復刻版発行
『西日本新聞』(1989年(平成元年)1月26日)
『町報いずはら』(昭和37年No.11)
『新対馬島誌』
発行所 新対馬島誌編集委員会(長崎県厳原町田淵 対馬教職員組合内)
1964年4月30日刊行
『対馬百科』
編集 つしま百科編集委員会
発行 長崎県対馬支庁
平成14年3月25日発行
『日本燈台史』
編集 海上保安庁燈台部
発行 社団法人 燈光会
昭和44年6月30日発行
『厳原町史』
編集 厳原町誌編集委員会
発行 厳原町
平成9年3月31日発行
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