前書き
 第3弾「耶良埼灯台・古代のロマン〜その1」で、耶良埼灯台の変遷の概要をご紹介致しましたが、第4弾では、「耶良埼灯台・古代のロマン〜その2」と題し、対馬藩が設置し、明治9年厳原在住の問屋5名が再建したと伝えられている灯明台についてご紹介したいと思います。

 

「耶良埼灯台・古代のロマン〜その2」

 対馬藩設置の耶良埼灯明台について
 厳原港二号岸壁(厳原港湾合同庁舎裏)に灯明台が設置されていることをご存知でしょうか。


                            厳原港二号岸壁移設された旧耶良埼灯明台

 この灯明台は、対馬藩が耶良埼に設置し、明治維新の版籍奉還・廃藩置県等の行政組織の大改革期に廃止されていたものを、明治9年に厳原在住の問屋5名が再建したと伝えられているもので、大正3年に厳原町が耶良埼に竿燈を建設するまで使用されていました。
 ところが、いつの頃か時期は不明ですが、竿燈に変わりこの灯明台が再利用されていたのでした。
 昭和31年に海上保安庁が、同地に灯台の建て替えを計画。耶良埼一帯の土地所有者である故・吉田善助氏に伝えたところ、現地に保存するよう要望を受け、検討するも同一地に二つの灯台の存在が認められず、解体と決まりました。そのため吉田氏は、厳原町に保存を求めましたが、引き取りを拒否されたので、海上保安庁が解体しました。
 灯明台の保存を訴えていた、吉田氏は解体された灯明台を譲り受け、昭和31年に自宅の庭に再建し保存れていました。                              
 朝日新聞(1980年(昭和55年)1月17日)に「石造りの純和式灯台・ほぼ原形で残る」と題して、吉田氏が保存されていた旧耶良埼灯明台を紹介する記事が掲載されています。

                             朝日新聞(1980年(昭和55年)1月17日)の記事
                      【註】この新聞記事の掲載については、記事掲載について朝日新聞
                         社 知的財産センターに申請し、特別に承諾を頂いています。
                         朝日新聞社に無断で転載することを禁止します。


 平成11年、厳原港の開港百周年に当たり、厳原港開港百周年記念事業実行委員会が、記念事業の一環として貴重な歴史資産を多くの人々に見て貰えるようにと、灯明台を厳原港二号岸壁(厳原港湾合同庁舎裏)へ移設したいとの計画に、吉田有慶史が賛同され、平成11年8月7日に厳原港二号岸壁に無事移設が完了し、除幕式がとり行われました。

                                      移設記念事業碑


厳原町広報誌・広報いずはら(平成11年9月号)「まちの話題」の欄、対馬新聞(平成11年8月6日)に、それぞれ移設時の経緯等を紹介する記事が掲載されています。


                               広報いずはら(平成11年9月号)記事
                         【註】 この記事の掲載については、記事掲載について対馬市秘書課
                             に申請し、特別に承諾を頂いています。
                             対馬市に無断で転載することを禁止します。

対馬新聞(平成11年8月6日)記事 
   【註】この新聞記事の掲載については、記事掲載について
対馬新聞社に申請し、特別に承諾を頂いています。
 対馬新聞社に無断で転載することを禁止します。


    
耶良埼灯明台の建設時期については、上記3紙とも厳原在住の問屋5名が明治9年に建造したと記しています。これは、灯明台の後ろ側の暗弧板に「明治九年歳在丙子八月、諸船航海為便利建之」の文字と問屋5名の名前が彫り込まれているためと推察されます。

耶良埼灯明台の裏側

 

耶良埼灯明台の寸法図(現物計測値)と暗弧板彫り込み文字




 一方、「明治以前設置燈明臺年度表」(日本燈台史・海上保安庁燈台部編集 発行 社団法人 燈光会 昭和44年6月30日発行)では、対馬藩が設置した「灯明台」について、設立地名は「長崎県対馬国下県郡厳原村東里」、設立者は「藩主」、存廃については「存」と明記されており、この記述に基づけば、明治9年に厳原在住の問屋5名が建設したといわれているこの灯明台は、実際は対馬藩が設置した灯明台で、問屋5名は新規に灯明台を建設したのではなく、本体の石造りの灯明台はそのまま再利用し、資金を拠出して運用を再開させたのではないかとの推察もできます。
 他に明確に事実を記録した資料もないため、あくまでも推察の域に止まりますが、今後、対馬藩が設置した灯明台の設置時期、場所、設計図などの資料が発見され、史実が明らかになることが待ち望まれます。

 以上、厳原港二号岸壁に展示中の純和風の石造り灯明台について、対馬藩が設置したものか、あるいは、明治9年に厳原在住の問屋5名が設置したものかについて、推論を交えながらご紹介しましたが、次回は、耶良埼の山頂付近に現存する石垣跡が、対馬藩が設置した灯明台の基礎石垣であったのか、あるいは、遠見番が置かれていた望楼の基礎石垣であったのかなどについて、それらについて記事が掲載された新聞記事や現在の石垣跡の写真などを、ご紹介したいと思います。

[参考資料
『日本燈台史』
編集 海上保安庁燈台部
  発行 社団法人 燈光会
昭和44年6月30日発行

『広報いずはら』(平成11年9月号)

『対馬新聞』(1999年(平成11年)8月6日(金曜日)

『朝日新聞』(1980年(昭和55年)1月17日(木曜日)