前書き
 
 第1弾では「神埼灯台建設のエピソード」をご紹介致しました。
 第2弾では、前回に引き続き神埼灯台に関するエピソード神埼灯台の黄金の泉伝説」「戦時中の神埼灯台と職員の状況」についてを、対馬漁業誌及び太平洋戦争末期時における神埼灯台へのアメリカ艦載機による攻撃の記録日誌を基に、ご紹介したいと思います。
 
「神埼灯台の黄金の泉伝説」について
 
 対馬は、近年に至るまで我が国における開発が最も遅れていた地域の一つに数えられ、昭和30年代前半までは、中世の様式がそのままに存在していたと言われています。
 また、島内には道らしい道が無く、浦々に散在する部落間の連絡はほとんど小舟に頼っていました。
 このような対馬の最僻地と言われる神埼灯台では、長年にわたり多くの灯台職員が在勤して、筆舌に尽くせぬ努力を重ねていましたが、これら職員が悪環境の中で円滑に業務を遂行出来たのは、常に陰にあって業務を支えてきた、小使い・水汲夫・よう船者・用弁者と言われている人々の助力によるところが多大でありました。
 これらの人々の中でも、神埼灯台の水汲夫として雇われた地元浅藻のI氏は、水汲の報酬を元手に事業を興して成功させ、無一文から対馬随一の事業家までに登り詰めました。 また、I氏の後を継いだS氏も水汲みの余暇に着手した事業から財をなすに及び、I氏は、神埼灯台の水汲夫として雇われた者は大成するとの「神埼灯台の黄金の泉伝説」のモデルとされています。
 このI氏の成功の経緯についてお話ししたいと思います。
 I氏が神埼灯台の水汲みを始めた時期については、明記された記録がなく不明ですが、現存の記録簿では、明治30年3月24日に、松無(大字内院字松無)に「掘井」(下図の神埼灯台付近図において神埼灯台井戸用地と記した場所)が設置されていることから、少なくともこの頃からは水汲みの仕事に従事し、職員・家族の飲料水を水桶に背負って、毎日のように松無の井戸と灯台間約2.5km(下図神埼灯台付近図参照)を運搬していたと思われます。
 
神埼灯台付近図
 
 
 また、「黄金の泉」と呼ばれた井戸は、昭和10年の「字松無井戸より飲料水運搬」契約(相手不明)の記録が残っており、松無井戸とは「掘井」であることから、この頃も使用されていたものと推察されます。
 I氏は、日露戦争(明治37年〜38年)に入る頃、炭焼き事業に着手し(たまたま浅藻で山火事が起き、焼け跡の炭を買い集めて売りさばいたところ、良く売れたため(対馬市厳原町在住のI氏の孫に当たる氏の話による))、第一次世界大戦での日本の軍需景気により炭の値段が高騰して大当たりし、その後は、運搬船を所有して直接九州本土に自身の炭を売り裁く等、事業を拡大していき、ついには鮮魚運搬事業にまで進出し、対馬島内の鮮魚運搬を一手に扱う程の、島内屈指の大実業家となりました。
 
 神埼灯台に関する事項の概要とI氏の活動についての関わりを、神埼灯台の経歴簿等から年代順に対比して見ました。
 
                神埼灯台施設整備状況等及びI氏の足跡概要       

 年 代

   神埼灯台施設の経歴

    I 氏の活動の足跡

G1

M27.7.25M27. 9. 5 M28.4.17M30. 3.24




M33. 1. 1






M33. 1. 1




M36. M37.2.10 M38.10.14
T 3. 7.28

S 9.11.23


S10. 4. 1




S23. 3.31




 



日清戦争勃発
神埼灯台初点灯
日清戦争終結
掘井設置(神埼灯台井戸用地)
 場所 内院字松無敷地
 敷地 二畝六歩(約218u)
 規模 深三尺(約90p)
    スキ三尺 山石積上げ
水溜井設置(神埼灯台水源涵養地)
 位置(神埼灯台退息所から北に
    三町三十間(約380m)
 敷地 三反三畝(約3,276u)
 構造 岩掘割セメント塗 角形
    深三尺(約90p)
    方五尺(約1.5m)
用水溜設置(退息所裏)
 コンクリート製
     深四尺(約1.2m)
    縦八尺二寸(約2.4m)
    横五尺一寸(約1.5m)

日露戦争勃発
日露戦争終結
第一次世界大戦勃発

貯水槽設置            混擬土製 高1m34p 幅1m       横1m30p)
飲料水年額請負
    字松無井戸より運搬
    隔日施行 年183日
    年額 183円

池井設置
 飲料水60石入(約10,800リットル)

 ・・・・経歴簿より・・・・

 

福岡県糸島郡深江村(現前原市深江町)で生誕(1864年)。



無一文で対馬に渡り、神埼灯台の水汲夫として雇われる。















炭焼きを始める.


北九州は好況となり、炭を主に博多に出す。値段は2倍にも及び、みるみる財産を伸ばす。












 
 現在「黄金の泉」伝説の元となった「松無井戸」の所在は不明であり、明治33年に神埼灯台付近に設置された神埼灯台水源涵養池である「水溜井」(写真1、2)が、「黄金の泉」と言われています。
 
                
水溜井黄金の泉

黄金の泉表示板
 
 
「戦時中の神埼灯台と職員の状況について」
 
 対馬は、古代史に登場して以来、現在に至るまで一貫して我が国の防人島として、重要な位置づけがされて来た特殊な島でもあります。
 昭和20年8月上旬、島内は全て要塞化され、太平洋戦争の敗色濃く、暗雲が重苦しくたれ込めていました。
 当時、神埼には灯台職員(3名)の他、海軍潜水艦探知基地に軍人30名、陸軍情報収集所に軍人3名が常駐し、東岸の断崖下には岩盤に大きな横穴を掘り抜き、特攻艇(弾薬を積み込み、操縦者ごと敵の軍艦に体当たりする特殊兵器)の発進基地を急造すべく昼夜連続で作業が実施され、この工事には軍人100名、徴用民間人300名が従事しており、このため神埼一帯は、軍事色一色となり、厳しい管制下に置かれていました。
 しかし、この頃から既に我が国の制海・制空権は、完全に米軍に掌握されており、神埼上空には毎日米軍艦載機が襲来するようになり神埼灯台の灯塔下を超低空で偵察機が飛行していました。
 昭和20年8月10日16:00頃、米軍艦載機数機編隊が突然神埼に向けて襲いかかり、灯台職員は、機銃弾と焼夷弾の雨をかいくぐりながら、防空壕に飛び込みました。
銃爆撃が止むまでの30分程の間に、神埼灯台の灯塔には無数の弾痕が残され、第二吏員退息所は焼失、第一、第三吏員退息所の屋根は大きく崩れ落ち、見るも無惨な姿となってしまいました。
 幸いにして灯台職員に戦火で命を落とした者はいませんでしたが、間もなく終戦となり、施設は荒廃したまま戦後の混乱期を迎え、暗く悲しい受難期が始まりました。
 昭和23年、戦後の混乱した社会情勢のために遅れていた灯台の戦災復旧が開始され、神埼灯台も幾多の改修工事を経て、昭和50年に太陽電池化された無人灯台となり、今なお航行船舶の安全運行のため、対馬の海を照らし続けています。
 
 
 第1回「神埼灯台の建設の経緯」、第2回「神埼灯台の黄金の泉伝説」と神埼灯台に関連した記事の掲載が続きましたが、第3回目は対馬の玄関口厳原港口の耶良埼灯台建設の経緯と、お膝元の厳原町の歴史を掲載したいと思います。
 
 
 [参考資料]
  「神埼灯台のしおり〜神埼灯台百周年記念〜」 厳原海上保安部・海上保安協会厳                        原支部編纂 平成6年11月1日
  「対馬漁業史」 宮本常一著作集28      未来社刊