前書き
  「主要灯台のエピソード」と題して、管内の主要灯台の建設経緯やその時点での時代背景及び昔の灯台職員の辺境の地における日常生活のエピソード、灯台周辺地域の顕著な歴史的事件等を織り交ぜながら、灯台の歴史、対馬の歴史及び生活環境の一端を紹介し、当保安部ホームページ利用のみなさんが「ほっと一息」つけるような、記事の掲載をめざして本企画を作成致しましたので、ご愛顧の程宜しくお願いします。
  第1弾としては、神埼(対馬最南東端)の断崖絶壁(海抜52mの岩盤上)に悠然と聳え立ち、勇壮感漂う「神埼灯台」の建設のエピソードをご紹介致したいと思います。

              神埼灯台建設のエピソード

 
「神埼灯台建設の経緯」                                                                    
 神埼灯台は、明治27年(西暦1894年)9月5日初点灯されましたが、この建設に当たっては、当時の海軍省の強い意向が反映されていました。
 明治27年は、我が国にとって内政・外政とも多難な時代であり、朝鮮半島においては、同年5月に「東学党の乱」が発生し、清国は朝鮮政府の要請に応じて、翌6月に兵を発しましたが、長年清国に押され続けていた我が国も直ちに兵を派遣し、別の政権を擁立して対抗したため、日清関係は益々悪化し、風雲急を告げる事態となりました。
 これが、世に言う「日清戦争」の始まりです。
 この戦史の秘話として、神埼灯台外4基の灯台の建設があります。
 当時の海軍省は、航路標識を管理していた逓信省(現総務省郵政行政局の前身)航路標識管理所に対し、明治27年5月、対馬の三島及び神埼、五島の古志岐島、佐世保港沖の大立島、佐世保湾口白瀬の5カ所に灯台を急造(1週間以内に竣工)するよう要請しました。
 この要請に関する要点については、航路標識管理所第二年報に次のとおり記録されています。
 「およそ、1週間に竣工を期する希望なりといえども、遠隔の地にして、しかも、5カ所の灯台を挙げて1週間内に落成を期するは、到底人力の能くする所にあらずといえども、戦時非常の場合なるを以て、所員一同昼夜努力し、横浜における灯台・灯ろう仮組立1週間、材料運搬1週間、現場据え付け工事1週間と、合わせて3週間以内に点灯せしめんことを期して、その事に着手したり。
 当時、技術員の多くは出張中にて本所に在る者は、わずか数名に過ぎざりしも、幸いに四等回転機械1個、四等回転レンズ1個、四等不動レンズ1個、六等不動レンズ2個、等外不動レンズ数個及び灯ろう1個の貯蔵あり、この際灯ろう4個及び火口油筒等を新造せば、焦眉の急に応じ得べきを、以て昼夜職工を督励してこれを制作せしめ、一方には木造仮灯台の組み立てをなし、又、他の一方には書記技手を馬関(現下関市)に派遣し、該5カ所の灯台・退息所建築材料買い入れ及び仮組み立て等の工事に着手せしめたり。
 8月に至り、該5カ所の灯台急造工事の監督を石橋技師に命ぜられる。
 依って、次のごとく工事の部所を定めたり。
 神埼へは、多田技師(工事主任)及び関川(会計主任)大谷(補佐)の2看守を派遣し、工事を督せしめ 、その間、製作所においては、日夜人夫を督し、灯ろう・機器等竣工したるを以て、これを明治丸(灯台視察船兼灯台資材運搬輸送船)に積み込み、横浜を出帆せしめ、馬関において退息所材料を搭載し、対馬鰐浦に入り三島灯台用機器材料及び派遣員を上陸せしめた後、卒士が浜(現対馬市厳原町浅藻)において神埼の分を揚陸したり。
 種々の困難に遭遇したりといえども、一同の奮励により、白瀬・大立島・三島の3灯台は着手後4週間を出でずして(8月28日)初めて点灯し、神埼は9月5日これを点灯したり。
 上記5灯台は、臨時仮設に属すといえど古志岐島は四等回転にして光達21浬、神埼は四等不動にして16浬の光達距離なるが故に、佐世保又は馬関より黄海に進航する艦船の常に依頼したものなれば、軍事輸送に貢献したる巧少なからず。」
 木造の仮設灯台とはいえ、僅か4週間で竣工したというのは、当時の交通事情等を考慮すると驚異的なものであろうと推察されます。

以上記述の「神埼灯台建設の経緯」については、平成6年11月、当保安部が「神埼灯台点灯100周年」を記念して編纂した「神埼灯台のしおり」からの抜粋によるものです。
 このように神埼灯台は当時の時代背景に伴う海軍の強い要請により建設され、この日より12日後の、9月17日に日本海軍連合艦隊と清国北洋艦隊が「黄海」で大海戦を行いました。
 まさに滑り込みセーフのタイミングでした。
 玄界灘の真ん中に位置する沖ノ島の沖ノ島灯台や壱岐の若宮灯台なども、日露戦争での日本海海戦を控えて急遽急造されたことが伺え、明治期の主要な沿岸灯台の建設は切迫した時代背景に伴う海軍の強い要請に基づき建設された灯台が多々見られます。

 「神埼灯台の管理方式の変遷について」
 神埼灯台は、明治27年(西暦1894年)9月5日の点灯開始から、昭和35年4月1日に厳原海上保安部(現対馬海上保安部)灯台課に集約管理されるまでの66年間は、灯台職員及びその家族が、灯台の直接管理のため、神埼灯台と同一敷地の宿舎に居住し、日常生活を送っていました。

 昭和35年4月1日から昭和50年9月18日までの約15年間は、滞在管理保守となり、灯台課職員2名が、厳原海上保安部から陸行で浅藻集落まで出向き、浅藻集落から漁船を用船仕立てして灯台に渡り、10日交替で滞在勤務して灯台の保守・運用を行っていました。
 冬季の季節風の強い時期や低気圧や台風通過後の海上荒天の場合は、用船が使用できないため、各人10日分の食料、着替え、その他の必要品をリュックサックに詰め込み、浅藻集落から神埼までの山坂の険しい約5キロメートルもの山道を2時間あまりかけて踏破し、交替していました。(神埼灯台付近図

 この滞在管理方式も、昭和50年9月18日に、機器の改良(電源をディーゼルエンジン発電方式から太陽電池方式に変更)により無人化され、15日周期の巡回見回り方式に変更されました。
 このように、神埼灯台の維持・管理方式は、社会の変化や技術の進歩とともに、変化を繰り返しながらも、灯台は日々絶えることなく海を照らし続けています。

 「直接管理時代の辺境の地で暮らした灯台職員の生活様子について」
 直接管理方式時代(明治27年〜昭和35年迄)の約66年間は、神埼突端の地において、灯台職員及びその家族が、灯台の灯火を守りながら日常生活を営んでいました。 現代の便利な生活様式に慣れ親しんだ者には、想像もつかない生活であったと推察します。
  神埼灯台で日常生活を送った灯台守とその家族の様子は、次回掲載予定の「神埼灯台の黄金の泉伝説」でもその一端を紹介出来ると思いますが、この時代の灯台職員の勤務・私生活等を特に若い世代の皆さんにイメージしてもらうのに最適の映画があります。
「喜びも悲しみもいく年月」という題名で、昭和32年に封切られた木下恵介監督の作品です。
  佐田啓二・高峰秀子主演による戦前・戦中・戦後の時代を灯台守として生きた男性とその家族の人生を、この主人公のモデルとなった灯台守の奥さんの回想手記を基に木下監督が脚本した作品で、当時一世を風靡しました。
  この映画を鑑賞していただければ、戦前〜戦後にかけての灯台守の勤務状況及びその家族の生活状況がよりリアルにイメージして頂けるかと思います。
  
  永い年月に亘る、辺境の地での限られた人々の窮乏した日常生活の営みの積み重ねによる伝説、逸話の類がたくさん残っています。
 そのたくさんの伝説、逸話についてもお知らせ致したいところではありますが、次回に掲載したいと思います。
 次回は神埼灯台に関するエピソード(神埼灯台の黄金の泉伝説)を考えています。 どうぞおたのしみに。