前書き

 前回は、明治9年に厳原在住の問屋5名が再建し、現在、厳原港2岸に展示中の純和風の石造り灯明台についてご紹介致しましたが、引き続き「対馬藩は、いつ頃耶良埼に灯明台を設置したのか」などについてご紹介したいと思います。                                 
    「耶良埼灯台・古代のロマン〜その3

対馬藩設置の灯明台は、寛永年代(1624.2.30〜1644.12.16)に設置されたのか?

 書状跡付(寛永一八年六月二六日付)
  一 鰐浦へ朝鮮渡海之舟渡シ口見付候様ニ燈籠すへ置、上使御下向之時分火を立候
    儀奉得其意候
  一 鰐浦番所之儀、御指図被成置候所へ、かわらふきに
(虫)(虫) 作り
    仕、只今両所 へ被召置候奉行之者一所へ移居候様ニ有之義奉得其意候
  一 府中浦口へ高登楼明シ可申之由奉得其意候、所からの儀、随分見合すゑ、彼是
    瀬戸内ニ有之通ニ可申付候
(註)
(虫)は 、古文書の一部が虫に喰われて、一部欠落していることを示す。

 右の書状は、「国巡之上使(巡検使)」の入国に備える一連の措置について、江戸屋敷からの指示に対する 国元からの返状の一部であるが、鰐浦口と府中浦口へ新たに燈籠台を据えること、府中浦口のものは瀬戸内(住吉瀬戸)のものと同様にするようにとあり、既にこの当時に住吉瀬戸には夜間通船のための燈籠台が設けられていたことが知られ興味深い。また、鰐浦番所は瓦葺きにする等全体として御関所の施設の整備が進められているさまが把握できる。

 上記の書状跡付及びその解説文は、対馬市在住の対馬郷土史研究家 長郷嘉壽氏が、『絶海を渡る−七丁櫓地舟による朝鮮海峡横断の記録−』(編集・発行所 「日韓友好親善の船」(旧上対馬町役場・産業課内)に『朝鮮渡口御関所と御関所御用飛船をめぐって』と題して、対馬藩と朝鮮国との交易のため対馬島内に設けられた御関所と朝鮮(倭舘)と国元対馬との日常の連絡の主な役割を担っていた御用飛船について、『宗家文庫』(対馬歴史民俗資料館収蔵)の古文書の解析をもとに論評された文の一部です。

 この寛永18年(1641年)6月26日の書状跡付の文意は、概ね以下のとおりになります。

 書状の跡付(寛永18年6月26日付)
 一、鰐浦に、朝鮮へ航海する船舶の桟橋の場所が良く判るように登楼を設置し、江戸
    からの巡検使が対馬に来る頃には、灯火を立てられるよう準備しておくようにとの
    ご指図につきましては、よく承知しています。

 一、鰐浦の番所の件につきましては、御指図どおりの場所に設置し、屋根は瓦葺きに
    仕上げ、現在、2ヶ所に奉行を始め関所役人を駐屯させているのを、適宜移住させ
    て1ヶ所にまとめて駐屯するようにとのご指図につきましても、よく承知しています。

 一、府中浦の入り口に高登楼を設置して灯火を掲げられるようにとのご指図につきまし
    ては承知していますが、どの場所に設置すべきか充分検討し、高登楼の姿形につ
    きましては、瀬戸内地方にあるものと同様なものを製造するよう申し付けました。

 書状跡付の三項目に記されている「府中」とは城下を示す言葉であることから、現在の厳原市街地に当たり、「府中浦の入り口」は、耶良埼のことを示しているものと思われます。
 このため、寛永18年6月26日付の書状跡付から、この日以前に耶良埼に高登楼を設置して灯火を掲げるよう江戸屋敷から指示があり、対馬藩は、『設置場所については、どの場所に設置すればよいか未だ検討中であるが、設置する高登楼は、既に姿形を決め、製造するよう手配している』ことが伺えます。
 また、この書状跡付が「国巡之上使(巡検使)」の入国に備える一連の措置に対する国元からの返状の一部であることから、江戸からの巡検使の来島を記録した資料が発見出来れば、耶良埼灯明台の建立時期も絞られてくるため、寛永18年近辺における幕府巡検使来島の記録を調べてみましたが、古文書を項目毎に編集し直した書物のうちの、巡検使来島の記録を集めた「章」には、寛永18年近辺の巡検使来島の記録は、残念ながら見つかりませんでした。
 しかし、「改訂 対馬島誌」371頁に寛永20年に朝鮮通信使(第5回)来聘の記述がありましたので、その文意を紹介します。


 江戸幕府が、第3代将軍家光の世継ぎ誕生を祝賀するため、朝鮮国に対し通信使の来朝を招待したしていたが、これに答えて朝鮮国は、正使として通政長官・尹順之以下400余人を日本国に派遣した。
 正使通政長官・尹順之一行は、寛永20年5月1日対馬の府中に到着し、同13日藩主義成がこれら一行を案内して、7月8日江戸に到着し、同18日将軍家光に拝謁して朝鮮からの国書と土産物を献上し、同27日日光東照宮に参拝した。
 さらに、同30日に江戸を出発して9月27日に対馬に帰着し、10月25日に対馬府中を出発して帰国の途についた。

 
 以上2つの記録から、現在のところ、この時期に江戸からの正式な巡検使来島を明記した記録は見当たらないものの、朝鮮信使来朝に備えて、江戸からの下見の「巡検使」の来島があったことが推測され、対馬藩が設置したと言われている灯明台は、この書状跡付の日付以後の寛永18年7月頃から朝鮮通信使一行四百余人が来朝した寛永20年5月1日以前の寛永20年4月頃迄の間に建設・設置されたのではないかと推察されます。

『対馬歴史民俗資料館』収蔵の「宗家文庫」寛永18年6月26日の書状跡付の一部
 (複写本コピー)
【註】対馬歴史民俗資料館に無断で転載することを禁止します。

 厳原港2岸に展示中の灯明台は、再現されたものなのか?

 西日本新聞(1999年(平成11年)8月14日号)の「ワイドながさき(4)」に厳原町にある八幡宮神社の境内にある灯台に関して、『この灯台(春日燈籠)が、1919年に発行された写真集の厳原港内にある立亀厳の風景写真の中で見つかったことから、江戸時代の灯台の可能性がある』との内容の記事が掲載されています。
 春日燈籠は、基礎が四角形をした石造りで高さ2.3メートルの小型の燈籠であり、厳原港2号岸壁に展示中の灯明台は、基部が円形をしているものの石造りであり、高さは3.8メートルと春日燈籠よりもやや大型ではありますが、石造りの燈籠が江戸時代に設置されていたものと考えられるのであれば、厳原港2号岸壁に展示中の灯明台は、江戸時代に対馬藩が設置していた灯明台が忠実に再現されたものであるとの推察も可能ではないでしょうか。


西日本新聞(1999年(平成11年)8月14日)の「ワイドながさき(4)」
  【註】 西日本新聞社に無断で転載することを禁止します。

    
厳原町八幡宮神社境内に展示中の
春日燈籠
厳原港2岸に展示中の灯明台

 また、永郷氏は、書状跡付の解説で、「瀬戸内」とは、対馬在住の人々の通念として、瀬戸内と言えば鴨居瀬の住吉の瀬戸を連想していたことから、鴨居瀬の住吉の瀬戸に、既に灯明台が設置されていたことが知られ興味深いと感嘆されておりますが、当時、対馬藩は朝鮮通信使一行の江戸表までの道中案内役を勤め、海路にて瀬戸内海を船で行き来しており、江戸時代、既に瀬戸内海に灯明台が設置されていたとの記録も現存していることから、「瀬戸内」を文字どおり「瀬戸内海」と解釈することも可能ではなかろうかと思われます。
 以上、対馬藩が耶良埼に灯明台を設置した時期、明治時代に再建された灯明台が対馬藩が設置したものの再現なのかについて、明記した資料は発見出来ず推測の域を超えることは出来ませんが、ご紹介してみました。
 次回は、耶良埼の山頂付近に現存する石垣跡が、対馬藩が設置した灯明台の基礎石垣であったのか、あるいは、遠見番所の望楼の基礎石垣であったのかなどについて、それらについての記事が掲載された新聞記事や現在も残る石垣跡の写真なども交えながらご紹介したいと思います。

 [参考資料]
 『毎日記』(宗家古文書・対馬歴史民俗資料館収蔵)  

 『絶海を渡る・七丁櫓地舟による朝鮮海峡横断の記録』
編集 日韓友好親善の船
発行者 日韓友好親善の船(長崎県上県郡上対馬町比田勝170(旧上対馬町役場・              産業課内))
1987年10月20日発行

『改訂 對馬島誌』
編集者 対馬教育会
発行者 中村安孝
昭和15年6月30日初版発行、昭和51年7月26日復刻版発行

『西日本新聞』(1999年(平成11年)8月14日)

『対馬百科』
編集 つしま百科編集委員会
発行 長崎県対馬支庁
平成14年3月25日発行