関埼灯台と逸話
●関埼灯台の概要
                       
 関埼灯台は、豊後水道と瀬戸内海の境である速吸瀬戸を挟む大分県側の大分市佐賀関町の関崎に1901年(明治34年)7月20日に点灯した灯台で、明治時代に建てられ現役で活躍する7基の鉄造の灯台のうちの1つです。
 構造は円形鉄造で、地上から構造物の頂部までの高さが10.85m、平均水面上から灯火までの高さが69.47mあります。
 灯器は、建設当時はフランス製の三等三連閃光レンズと三重芯石油灯で22,700燭光を発光して21海里先まで明かりが届いていましたが、現在は、日本製の高光度LED灯器に変わり、光度5,600カンデラ、光達距離12.5海里となっています。
 ちなみに、設置当時のレンズは、大正7年1月に対岸の佐田岬灯台に移設され、2代目の四等不動折射レンズが設置されました。その2代目のレンズが大分市佐賀関町の関崎海星館に展示されています。
四等不動折射レンズ

●関埼灯台の灯塔に使用されている鋼板は国産か?

 関埼灯台に使用されている鋼板の一枚の大きさは、直径3.09m・高さ6.61m・厚6mmで、鋼板の接合方法はリベット方式です。
    
灯台外部の鋼板

 ここで気になるのが、関埼灯台に使用されている鋼板は国産ではないか?とのうわさを耳にしたことで、少し調べて見ました。
 現在の福岡県北九州市にあった官営八幡製鉄所(現新日鐵住金(株)八幡製鐵所)の操業開始年と関埼灯台の初点年が同じ明治34年であることから、その可能性を解る範囲で調べたところ、確かに官営八幡製鉄所が操業を開始したのは1901年(明治34年)ではあるが、操業開始月が同年11月であり、関埼灯台建設当時はまだ鉄の生産はされていなかったことが判明しました。
 また、これより先行して1887年(明治20年)に操業を開始していた岩手県釜石市にあった民営の釜石鉱山田中製鉄所(現新日鐵住金(株)釜石製鐵所)も銑鉄の生産しかしておらず、製鋼作業を開始するのが1904年(明治36年)でした。
 したがって、この灯台に使用されている鋼板は国産ではなく、当時灯台関係のレンズや機械等のほとんどを輸入していたヨーロッパ製の鋼板と思われます。
 関埼灯台が建設されて110年以上経過していますが、その当時の鋼板が未だ現役で活躍していることには、灯台に携わる者としても驚きを隠しきれません。

 (なお、明治23年頃の鉄の生産量は、この釜石鉱山田中製鉄所で20%(4,000トン)のほかに、古来からのたたらの砂鉄精錬で生産量の80%(16,000トン)を生産していたとのことです。)

●関埼灯台の内装

 関埼灯台の外観は、出入口の扉を除きほとんど当時のままの姿ですが、内装は老朽化等により一部改修、補強されてます。
 しかし、造り付けの書棚や内壁の羽目板の一部が昔のままに残されていて、一見したところ古いか新しいかぐらいのもので何の変哲もありませんが、古そうな羽目板を良く見てください。木目が描かれています。
 当時、羽目板に使用していたのは厚手の松材で、木目の変なところからヤニがでているので、松の節の部分であると思われます。
 また、羽目板が少しずれた部分を見れば、下地の板が見えていますので、木目は描かれたものだと判ります。
 現在では木目模様をプリントしたものを貼り付けることで簡単にできますが、この当時は、そのような印刷技術はありませんでした。この木目模様は、明治の早い時期に日本に入ってきた「木目塗り」という塗装の技法のようです。
 大分県内にある明治37年に点灯した水ノ子島灯台や姫島灯台も同じ「木目塗り」を採用していますが、改装等により現存していませんので、一見の価値はあります。
 なお、普段は灯台の外観は見学できますが、灯台内部は見ることが出来ませんので、毎年11月1日の灯台記念日前後に関埼灯台の一般公開を行っていますので、その機会にご覧戴きたいと思います。

羽目板と書棚      書棚の引き戸

●朱塗りの鳥居はなに?

鳥居 祠(ほこら)

 「関崎稲荷」と書かれた朱塗りの鳥居があります。
 この鳥居をくぐり一本道を歩いて関埼灯台まで行くと、灯台の入口から右手に目をやれば、関崎海星館に通じる遊歩道の側に少し荒れた朱塗りの祠(ほこら)があります。
 これが関崎稲荷です。
 関崎稲荷の由来については、次のようなものがあります。
 
 鳥居の横に「関崎稲荷の由来」と刻まれた石碑が建っています。
 そこには次のように書かれています。


鳥居の横の石碑

 関崎稲荷の由来
 お産稲荷と言われ、安産の守護神として祀られている。その昔、関崎には神馬の牧場がありました。あるとき難産で苦しむ神馬がおったが、飼育者もその術をず困り果てているとき、何処からともなく飛び来つた白狐が介護して、安産させたといわれていることから「お産狐稲荷」として祀られている。

 また、昭和45年12月に発行された佐賀関町史には、次のように書かれています。
 お三狐稲荷
 お産稲荷(または関崎稲荷)と称し安産の守護神として知られ、関崎に祀られている。
 伝記によると、昔、関崎に神馬の牧場があった。あるとき難産で苦しむ神馬があったが、飼育者もその術を知らず困り果てているとき、何処からともなく飛び来たった白狐がこれを介護して安産させたという。その後この地にお産稲荷として祀られている。毎年2月初午の日は参詣者でにぎわう。

 ここに出てくる神馬の牧場に関しては、佐賀関町史に次のように記載されています。
 神馬牧場
 関崎に四十町歩におよぶ牧場があり、この起源は通説に延喜年間、天皇が神に奉納された名馬を種馬として放牧したものといい、一説には太古からの牧場でもあるという。昔から名馬を産するごとにこれを国守に献じ、生月・青海・朝日・紫龍・黒ケ浜・白ケ浜・鹿毛浦、等の逸物が出たと伝えられる。・・・・

 また、明治38年4月に関埼灯台の管理職員(当時の職名は灯台首員)から灯台を管理する本所あての古文書の中に「・・・当地は野生化した馬が群れをなしており、日夜灯台敷地内に乱入し、その都度馬糞を散乱して掃除に困っている・・・」と言う内容の文書が残っており、今では想像もつきませんが、野生化した馬が住み着いていたようです。


●関埼灯台の前にあるお地蔵さんはなに?

 関埼灯台の敷地を灯台に向かって歩き、灯台に上る階段を上がらずに左へ行くと塀の切れ目があります。そこを通れば灯台の前に出ることができます。
 灯台から5メートル程下がったところにお地蔵さんが祀られています。これが関崎地蔵尊です。
 地蔵尊の脇に立てられた碑には、表に「燈臺○○○○○○○」、裏に「明治三十四年六月一日建」と刻まれており、灯台の建設に合わせて移転されたものと推測できます。
 この地蔵尊自体にも文字が刻まれておりますが、風化も進んでおり、顔の一部が欠けているなど、かなり古いものであると推察します。
関崎地蔵尊


 この関崎地蔵尊については、佐賀関町史には次のように記載されています。
 関崎地蔵
 関崎地蔵は、関崎の突端に祀られた地蔵尊で「波除け地蔵」の名がある。関六所権現の一つで神仏習合の時代に奈陀地蔵に見立てられた地蔵尊である。
 関崎の突端から見下ろす速吸の瀬戸は、波荒く急で海の難所とされていた、この荒波を奈陀地蔵の法力によって和らげ、航海の安全を祈念して建立された。
 関崎はこの地蔵尊が養老年間に安置されてから地蔵崎と呼ばれるようになった。

 また、駐車場から朱塗りの鳥居を通る時に眼を右にやると、「関崎地蔵の由来」と「関崎稲荷の由来」と彫り込んだ石版が目にとまります。
 ここには次のように記されています。
 関崎地蔵の由来
 関崎地蔵は又の名を「波除け地蔵」と言われ、関六所権現の一つで神仏習合の時代の地蔵尊である。関崎の突端から眼下に見える速吸の瀬戸は波荒く海の難所とされている。
 養老年間 役の行者である小角を乗せた船が急流の瀬戸を航行していると、激しい風波に合い遭難の危機に直面しているとき、小角が般若心経を唱えると突如としてお地蔵様が海上に姿を見せ、みるみる風波が鎮まったことから、小角は航行の安全を祈念して自から導尊を刻み建立したのである。この地は別名地蔵崎とも言われている。

 養老年間とは、奈良時代の西暦717〜724年を指しており、現存の地蔵尊がその時代のものかは定かではありませんが、航海の安全のために建立された地蔵尊と同じ地に、同じく航海の安全のための灯台が建てられたことに因縁を感じます。

●関埼灯台へは

 関埼灯台へ行くには、大分方面から車で佐賀関に向けて走らせて行き、途中から海岸線に沿った道を走っていくと道の駅があり、そこを過ぎれば前方に佐賀関精錬所の紅白の煙突が見えてきます。
 この煙突は、1972年(昭和47年)に建てられたもので、高さが200メートルあります。この横に明治期に建てられた高さ167メートルの煙突が佐賀関のシンボルとして100年以上も建ち続けていましたが、老朽化のため2012年11月から取りこわしが始まり、現在は見ることが出来ません。
 この紅白の煙突を目指して一本道を進み、対岸の四国、愛媛県の佐田半島の三崎港とを結ぶ「九四国道フェリーのりば」を過ぎてさらに進むと佐賀関の半島の入口(くびれたところ)に到着します。ここで道は南北(左右)に別れます。
 このくびれた所の北側(左側)が大分県にある五つの開港の一つである佐賀関港で、先ほどの煙突のある精錬所があります。
 また、全国的に有名なブランド魚である関アジ・関サバの水揚げをする佐賀関漁港が佐賀関港と反対の南側にあります。
 目的の関埼灯台へは、佐賀関精錬所前を通って山越えするルートと佐賀関漁港側の南回りの海岸線を通るルートがありますが、道路事情の良い山越えルートへハンドルをとって、関崎海星館を目指します。
 山越えの決して広くない山道を通り抜けると視界に海が広がります。そこで関埼海星館に向かう左折の道に入らず直進して下っていくと右側に駐車場があり、道路左側には朽ち果てた休憩所とその奥に公衆トイレが建っています。
 そこから関埼灯台を望むことが出来ます。
 関埼灯台へは、駐車場の反対側に朱塗りの鳥居とあまり目立たない看板が建っています。
 鳥居をくぐりコンクリート舗装の狭い一本道を歩けば、10分ほどで目的の関埼灯台へ到着します。
 関埼灯台は、常時構内を開放しており、灯台構内から高島や速吸瀬戸を望むことが出来、視界が良ければ、はっきりと対岸の佐田岬をはじめ四国の山々を見ることが出来ます。