水ノ子島灯台 | ||
み ず の こ し ま と う だ い | ||
【 灯 台 要 目 】 | ||
初 点 灯 | 明治37年3月20日 | |
灯 質 | 単閃白光 毎10秒に1閃光 | |
光 度 | 560,000カンデラ | |
光 達 距 離 | 20海里 | |
高 さ | 地上〜構造物頂部 39b 平均水面上〜灯火 56b 地上〜灯火 36.4b |
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監 視 方 法 | 衛星回線を利用した常時監視 | |
電 源 | 太陽光発電および波力発電装置 | |
位 置 | 北緯 33-02-37 | |
東経 132-10-38 |
水ノ子島灯台の概要 水ノ子島灯台は、明治33年から4年の歳月をかけて明治37年3月20日に点灯した。1基の灯台を建設するために4ヵ年を要したのは国内には水ノ子島灯台をおいてほかになく、灯台建設史上、屈指の難工事に数えられています。 灯塔の外部は徳山産の花崗切石を使用し、内部は灯室を含めて9層となっており、職員が滞在勤務をしていた頃は、1階が貯水槽、2〜3階が用品庫、4〜5階が燃料庫、6〜7階が詰員寝室、最上階が灯室となっていました。 建設当時、灯台職員の宿舎は下梶寄(佐伯市鶴見町)にあり、2〜3名の職員が地元の伝馬船で水ノ子島へ交代で赴いていました。この宿舎(灯台吏員退息所)は昭和37年まで使用され、その後、昭和58年に鶴見町(現在は佐伯市)に払い下げられ、昭和62年に内部を改修し、現在の「豊後水道海事博物館」「渡り鳥館」となっています。 「海事資料館」では灯台吏員退息所を修復し、当時の生活様式を再現した部屋や水ノ子島灯台の模型、古い漁具などを展示しています。また、「渡り鳥館」には昭和38年から昭和59年までの22年間に水ノ子島灯台に衝突して死亡した渡り鳥を剥製にして紹介しています。(春と秋は渡り鳥のシーズンで、九州と四国を分ける豊後水道の付近を鳥たちは群となって飛んで行きますが、鳥は夜間に移動するため、視界が悪くなると方向を見失い、強い光に向かって集まり、灯台に衝突することがありました。) ○天災・戦災 灯台は低い島の上に立っているため、台風期には打ち上げる波が灯台附属舎の屋根を越えることは珍しくありませんでした。大正元年9月22日の台風においては、水面上20メートルの高さにある灯台基礎部が激浪のため甚だしい損害を受け、34メートルの高さの灯台の窓から波が室内に打ち込み、一時は56メートルの灯台頂部まで怒涛の飛沫に包まれたと記録にあります。 また、昭和16年10月1日の台風には、巨浪は灯塔7階の寝室まで上がり、気象測器、無線機器、発電機、据置電池などことごとく浸水し、船着場は損壊しました。 灯台を襲ったのは台風ばかりでなく、太平洋戦争末期には米軍艦載機の機銃掃射などにさらされ、灯台の機能を喪失し、昭和20年5月4日には、ついに滞在勤務が不可能となり全員退島するに至りました。しかし、激しい機銃弾の跡と、構内及び岩に爆弾の炸裂の痕跡を残しながらも、石造の灯塔は倒壊することなく現在に至っています。 ○復旧 終戦後の昭和21年5月17日に弱い光度ながらアセチレンガス灯の仮灯が点灯し、戦災復旧工事により昭和25年11月15日に本灯が復旧しました。 有人での灯台の管理は昭和61年まで続きましたが、その後無人化され、巡回による管理となりました。 平成14年には発動発電機を使用していた電源を、太陽光発電および波力発電を利用したハイブリッド方式に変更して現在に至っています。 |